東日本大震災のとき、惨状を伝えるテレビ報道に、多くの人がわがことのように心を痛めた。ある女性は、涙があふれ血圧が190mmHg.に急上昇して外来受診に見えた。だが、彼女には被災地に地縁血縁もなく、友人がいるわけでもなかった。
心を痛めたのは被災者だけにではない。多くの人が、被災地の瓦礫の山と荒廃した大地そのもの、飼い主を失いさまよう痩せこけた牛の群れの映像にも憐憫の思いを向けていた。人はなぜ身も知らぬ他者の苦しみに、かくも深く内奥をゆさぶられ、惻隠の情をいだくのか。3.11の報道に接したとき、私が心に浮かべたのは、この問いだった。そして、こう考えてみた。
谷川俊太郎の詩「『私』という不思議」を引用しておこう。
私は少々草です 多分多少は魚かもしれず
名前は分かりませんが 鈍く輝く鉱石でもあります
光年のかなたから やってきた
かすかな波動で粒子です
そしてもちろん 私はほとんどあなたです
現代科学の成果によると、地球上のすべての人びとの祖先は、およそ20万年前にアフリカで生まれている。さらに遡ると、地球誕生とビッグバンなどでも、出自を共にしている。つまりわたしたちはおたがい、まるっきりの他人ではないということになる。
大震災の被災者と被災地の苦しみに寄せる共感はいわば、わたしたち一人ひとりの内奥にひそむ、意識を超えた遥か彼方で出自を共にしていたころの仲間への懐かしい思い出、「つながりの記憶」が喚起したものなのだろう。
「つながりの記憶」つまり「他者と共に在る」とは、究極の始源から、地球上のすべてのものに付与されていた根源的な状況なのだ。わたしたち人間は、いつも「我と汝」という関係性の中で生かされている。汝という他者との関係がなければ、我という実体などはそもそも在り得ない。しかもこの他者は、それぞれがヒトゲノムに基礎づけられた普遍性と独自性を併せ持つ、何ものにも支配されない、犯すべからざる尊厳と個性をもつ自由な存在者であり、これが「他者性」ということになる。
東日本大震災の被災者に心を痛ませるのは、内なる自己としてのこのような他者からの呼びかけであろう。この叫びや呻きに照応と共感を寄せたのは、「つながりの記憶」という究極の始源の自己つまり存在の根拠に立ち戻ったことでもあったのだ。
「コロナ禍」は、とかく忘れがちな「他者性」の大切さを、改めて問いかけているように思う。
奈井江町 方波見医院
方波見康雄
出典 The Way Forward No.19, 2021年