一生使えるモノって何でしょう。高級な腕時計、革の財布やバッグなどでしょうか。腕時計の文字盤の傷、革のツヤのムラなども、これまで一緒に過ごしてきた時間を示していて、愛着がある方もおられると思います。好むと好まざるに関わらず、一生使わなくてはならないのが私たちのゲノムです。ゲノムは人体の設計図としてよく知られていて、その中身は2万個の遺伝子の遺伝暗号の集合体です。
実は、体中の全ての細胞に、同じゲノムが入っています。とすると、不思議なことがあります。胃の細胞は胃酸を作って、食物の消化をします。皮膚の細胞は外界から体内の様々な細胞を守ってくれます。全然違う細胞で、一生、皮膚から胃ができることはないのに、両方の細胞は同じゲノムを持っているのです。不思議の答えは「エピゲノムが違うから」です。細胞は、2万個の遺伝子について、胃の細胞ではどの遺伝子を使うか、皮膚の細胞ではどれか、きちんと目印をつけていて、その目印の付き方がエピゲノムと言われる仕組みです。皮膚の細胞では胃になるための遺伝子には目印がついていませんので、皮膚から胃ができることはありません。つまり、このエピゲノムも一生モノです。
でも実は、一生モノのはずのエピゲノムが少し変化することで、便利なことがあります。細菌に感染して治れば、しばらくの間感染に強くなります。感染したその細菌を免疫系が記憶することも重要ですが、実は、色々な細菌を感知するマクロファージという細胞のエピゲノムが変化して、侵入した細菌への防御反応が起こりやすくなることが分かっています。また、子どもの頃、親に十分に愛情を注いで貰うと大人になってもストレスに強くなることがあります。その仕組みが、神経細胞のエピゲノム変化であることが、ラットを用いた研究で示されています。2万個の遺伝子についた目印のうち、ほんの数個の変化で、大きなメリットがもたらされます。
逆に、エピゲノム変化が病気の原因にもなることが知られています。ピロリ菌感染は胃がんの最大の原因です。ピロリ菌に感染すると胃炎が起こり、その結果、胃の細胞に徐々にエピゲノム変化が溜まってきます。私たちは、胃がんに罹った人では、このエピゲノム変化の溜まった量が多いことを見つけました。ならばということで、エピゲノム変化の蓄積量を測定することで、誰が胃がんになるかも予測できることも証明しました。間もなく、まだ正常な胃粘膜に刻まれたエピゲノム変化を測定することで、将来の胃がんのリスクが診断できるようになります。また、脳の細胞では、若い頃にストレスに曝されるとエピゲノム変化が誘発され、その後のうつ病や行動異常の原因になるらしいことが分かっています。食べ物や生活環境で腸内の細菌の種類が変わると免疫細胞のエピゲノムが変化して、喘息などのアレルギー疾患を発症し易くなるともされています。
エピゲノムには良い記録も悪い記録も刻まれます。良い記録はどちらかというと細胞が積極的に刻んでいるのですが、悪い記録は遺伝子に隙があると刻まれることが多い様です。隙がないようにする一つの方法は、遺伝子を使うことです。確かに、色々な食事をとって色々なことをするのは長寿の秘訣ですから、大変に理に適っていることと思います。今後の研究で、良い記録は刻み、悪い記録は刻まない、そんな便利な方法が開発されると良いなと思っています。
国立がん研究センター研究所 エピゲノム解析分野
牛島 俊和
出典 The Way Forward No.19, 2021年