世界最古の癌の記述は古代エジプトにあるといわれていますが詳しく教えてください。
古代エジプトには医学パピルスと呼ばれる医学書のようなものが複数発見されています。その中の主なものには外傷を中心とした外科系疾患48例を提示したエドウイン・スミス パピルスと内科系疾患を主としたエーベルス パピルスがあります。このエドウイン・スミス パピルスの第45例目が乳がんと考えられ、世界最古の癌の記述と一般的に言われているものです。具体的には「触れて硬く冷たく、膨隆して乳房全体に広がる腫瘍」であり「これをみたら治療は不可能」と結論づけております。この記述が本当に悪性腫瘍を表すのかどうかについては否定的な立場をとる研究者もあります。一方内科系疾患を主に記述したエーベルス パピルスにも子宮癌や乳癌を疑わせる記述があるそうです。
さて考古学的発掘の結果、古代には癌が少なく環境中に発がん性物質が現代よりも少なかったためではないかという学説があります。しかし最近発掘調査が進み、分析技術も向上するにつれミイラや遺骨にはっきりとした癌の痕跡を認めるケースが増えてきています。
その一例をあげてみましょう。サッカラの墓から発掘された古王朝時代(第5-6王朝 紀元前2494年から2181年)の50歳から60歳程度の女性の頭蓋骨に60.5㎜×53㎜の大きな骨転移がみられたのです。形は不規則で周囲に二次性病変と思われる小さな骨病変が複数みられます。骨形成所見はなく骨破壊型病変です。また第五腰椎左側にも転移性骨病変と思われるものが見られます。その原発巣がどこであったかは推測の域を出ませんが転移部位、形、年齢、性別などから筆者らは乳がんの可能性が高いと結論づけています。
実は現存するエドウイン・スミスパピルスは比較的新しい時代の写本(紀元前1650-1550年頃)なのですがその記載様式からもともとは古王国時代のものと考えられ当時活躍したイムホテップ(紀元前2700年ごろ)にさかのぼるとも考えられています。今回骨転移が発見された遺骨の墓はイムホテップが建築した階段ピラミッドのすぐ隣にありました。イムホテップは第三王朝のジョゼル王に仕えた宰相であり建築家、医師でもあった実在の人物と考えられています。紀元前8世紀頃に神格化し、その後ギリシア、ローマ神話のアスクレピオスに同化していきました。今日医療の象徴となっている蛇の巻き付いた杖の持ち主です。そのイムホテップの活躍した地域で近い時代を生きた女性に悪性腫瘍、もしかしたら乳がんの骨転移が疑われる事は大変興味深い事と思われます。
旭川市吉田医院副院長 吉田礼
出典 The Way Forward No.18 2020年